柴田直樹 / Naoki Shibata
● 主な技法:綿布に岩絵具で着彩
自身や世界が存在するという不思議を、あなたは、幼き日に、一度も考えたことはありませんか?
私は幼き日にこの上手く言語化することの出来ない不思議を抱き、多くの人間が成長するにつれて忘れていくであろうこの疑問を抱え続けて今に至るまで生きてきた。この疑問は膨らむことも萎むこともなく、常に私の傍らにあった。
私は存在/関係性/認識/共通認識をテーマとしている。
存在するとはつまり一体どういうことなのか。
「そこに在るそれはそれ以上でもそれ以下でもない、それに過ぎないものにも関わらず、人々 はありもしないものを関係性を用いてそこに出現させる。 全ての事物には本質などというものはなく、あるのはその形態だけである。もしかした らゲームの中のように表層にテクスチャが貼られているだけかもしれない。それらの奥には隠された意味や本質があると思いがちだが、その実そんなものは存在せず、ただそれらがそこにあるに過ぎない。 一つのある事物は一つのそれとして存在しており、それ以外の何ものでもなくただ完結 したそれとして存在している。連続した事物のように見えるものでもそれらは何の関係性 を結ぶこともなく、連続性を帯びることなく純然とそこにあるだけだ。」 私は以前、このように考えていたことがある。
しかし、存在していると認識しているものが本当に存在しているとは限らない。人々は 事物と事物の関係性の中からそれらとは異なる存在を見出し、あたかもそれがそこにある かのように認識していることがある。そうだと思っている事物、または見えている事物は 本当にそれなのだろうか、本当に存在しているものなのだろうか、ただ自分の頭の中にの みあるものなのではないか。
また、過去や未来は私たちの空想の中にしか存在せず、在るのは今現在この瞬間だけしかない。 しかし、我々は今現在この瞬間を知覚する術を持ってはいない。だから私たちは眼前の広 がる世界の存在を確定させることは出来ず、その客体の世界は認識上においてのみ存在しているとも言えるではないか。
ただ、「我思う故に我あり」とデカルトが言ったように、その瞬間瞬間を感じている自身の存在は疑いようがなくそこに存在している。観測者としての自己が絶対的な存在だとするのなら、その認識上に在る全てのものは存在していると言えるのではないだろうか。 そして、全ては認識という同一線上に在るのだから、その全てに優劣や差異といったものはない。世界は自身の認識上に存在しており、全てはただそこに純然と存在しているのだ。
では、その観測者としての自己とは一体どこに在るのかという疑問は当然のように湧いてくるが、自己もまた世界の中に存在しているのだ。つまり、世界とは、自身とはウロボロスの輪のように、終わりもなく始まりもなくただ純然とそこに在るのではないだろうか。
これらは一見矛盾しているようにも思えるかもしれないが、私はその表現を試みる。
柴田直樹 Profile
1994年 石川県生まれ
京都造形芸術大学 大学院 芸術研究科 芸術専攻 ペインティング領域 修了
◆受賞歴
2018年 京都造形芸術大学 大学院 修了展 「優秀賞」受賞
2018年 京都造形芸術大学 「画心展2018-Selection Vol 15」 「優秀賞」 受賞 佐藤美術館/東京
2019年「 ZEN展」 「優秀賞」 受賞 東京都美術館/東京都
◆展示歴
2018年 京都造形芸術大学 「シュレディガーの猫展」東京都美術館/東京
2018年 「装幀画展2018ー14人の作家による文学とアートの出会い」ギャラリーmusée/石川
2020年 「ARTISTS' FAIR KYOTO 2020」 京都文化博物館/京都
◆インフォメーション
〝私〟は何処から来て、何処へ行くのか。そして、今、一体何処に居るのだろうか。