KONOYO.net

池袋アートギャザリング公募展
IAG AWARDS 2020 EXHIBITION
20/07/17[金]-20/07/19[日] @ 東京芸術劇場 5F Gallery1

池袋から世界へ、新しい才能の発掘に参加しよう!
「IAG AWARDS」は池袋の街や人とアーテイストをつなぐ「池袋アートギャザリング(IAG)」が企画運営する公募展です。
全国からの応募者439名の中から現役美術作家を中心とするIAG審査員がジャンルや年齢を問わず選抜した51 名の精鋭アーテイストたちが集結!
会期中のさらなる審査により、IAG審査員たちが選ぶ「IAG各賞」ほか、「豊島区長賞」や池袋エリアのギャラリーなどによる「IAG PARTNERS各賞」、来場者投票の結果による「オーディエンス賞」も決定します!!

写真作家
三浦勇人 / yuto miura 

● 主な技法:写真(阿波和紙インクジェットプリント)

作品名「哀の喪失と創生」

死に触れる機会が多かった人生だが私は物心ついた頃から皆と共に死や不幸をしっかりと哀しみ共有することができなかった。他人の死にとらわれている人を見ると昔から不思議でならなかった。葬儀の時、その死を哀しみ惜しむことよりそのよくわからない「死の時間の檻」からだんだん解放されることへの安堵と幸福感があった。同時に周りの人と共に哀しめない自分へ恐怖めいたものを感じていた。

2016年に最も愛していた母が突然死んだ。突然死んだ母に対しても家族とともに同じ熱量で哀しむことはできなかった。葬儀も終わりに近づき私は解放と幸福感に包まれる。自分が母の死の檻から解き放たれていくような解放的な気持ちになった。それは私にとっての幸福だった。母の死の哀しみが自分の中から喪失し、いつしかその出来事も忘却していくこととなり、私は完全な幸福感に満たされた。

母が死んでから3年。東京での作家生活にも慣れて母の死もとうに忘れていた頃、道端で1人の老婆に切り取られている紫陽花を見かけた。まだ元気で綺麗な紫陽花を無残にも切り取り気に入った一つを持ち帰り、気に入らない紫陽花はその場に捨てていく姿を見た。その突然な死は母の死を連想させた。「死の時間の檻」からの解放感と幸福感、そして哀しみが喪失していくあの感覚が蘇ってきた。

気付くと紫陽花の亡骸をひたすら写真に撮っていた。撮ることで哀しみをそこへ保存し永久的に感じることのできる哀しみを創り出しているような気持ちだった。
そして自分の中で哀しみが生まれていくような感覚になりその写真を共有することで哀しみを周りの人と共有した気持ちになり自分へ感じていた恐怖感も徐々に和らいでいくのを体感していた。

それを機に死んだ花を撮り続けている。花の「生」が道端に存在すれば「死」も必ず存在しその生を見つける度にその先の死を待ちわびるようになった。作品にすることで「生きた哀しみ」を感じることができた。私のこの作品は日常にある最も身近な死から永久的に感じることのできる哀しみをそこへ保存した作品である。また哀しみを共有できる手段の一つとなり私の心に安らぎを与える作品となっている。

三浦勇人

三浦勇人 Profile

1993年 福島県生まれ

◆受賞歴

◆展示歴
2016年より東京で生きる花をテーマに作家活動を始める。

個展
2017年:12月「刹那と静寂」
2018年:12月「憂いの影」
2020年:11月「忘命の箱庭」
2020年:12月〜1月「哀の喪失と創生 in Firenze2020」

その他展示
[2018]
・Affordable Art Fair Amsterdam 2018

[2019]
・SICF20
・北井画廊「ART ON PAPER project2 紙の美術其のニ」

2020
・IAGAWARDS2020
・100人10

2021
・御苗場2021

その他カフェ、Barなどで作品の常設展示多数.....

◆インフォメーション
福島県の山の麓で育った僕にとって東京には自然など存在しないものだと思っていた。写真を通して花と触れていると東京には意外にも花と共存している。しかし、僕が育った町のあの自然あふれる場所で出会った花たちとはまるで違う一面が見える。ここの花は美しさより人間のエゴな部分と花の気の毒さが東京の風景の中で色濃く映る。
山の麓で綺麗に咲いてた花の記憶も、そんな光景を見ていると次第に霞んでいき、いつしか本当の美しさのようなものを忘れてしまう。僕はそんな恐れや不安を感じて衝動的に東京で生きる花を写真に収めた。

写真家として上京して6年。東京で生きる花の強さと美しさや生まれて朽ちるまでの背景などを意識し写真に残してきた。作品という形で昇華する事で新たに咲き続けていける居場所を作り、個としての花が朽ちてもなお形を変え、展示会場が生き続けていく場所にもなり得ると感じている。